「許せない人っていますよね?」
数年前、とある人の講演会で、「みんな、許せない人っていますよね?」と当然のように言われ、思いっ切り引いたことがありました。
「この人何言ってるの?」ってめちゃくちゃ驚きました。
その場にいた多くの人がどう感じていたのかわかりませんが、その日から私のその人を見る目が変わりました。
確かその方は、元旦那さんのことが許せなかった、でも許しましょう、という話だったと思うのですが、冒頭から衝撃的すぎて、その後の話は頭に入らず、その衝撃だけが今も残っています。
「許せない」が理解できない
私は結婚して11年になりますが、10歳になる長女が小さい頃、私が会社員として再就職した頃には本当に喧嘩も多く、その時の私の発言で「許せないと思うようなことがあった」と、今でも喧嘩になると時々言われます。
でも、私にはその「許せない」という感情が理解できないんですよね。
なので、率直に「私にはわからない」というと、「そこまでのこと(許せないと思うほどのこと)がなかっただけじゃないか」と言われたこともありました。
納得はいかなかったけど、「そこまでのこと」と言えるような出来事をそのときは思い出すこともできず、夫の言うことを否定もできませんでした。
とにかく、「許せない」が全然ピンと来なかったんですね。
「そこまでのこと」は起こっていた
でも、ある時ふと思い出しました。
「そこまでのこと」が、自分の身にも起こっていたことを。
これはちょっとブログに書ける話ではないので内容は省略しますが、つまりは「ブログに書けないくらいのこと」です。
が、本当にうっかり忘れていました。実際、「忘れたい出来事」ということもあると思います。
それをある時、突然思い出したのですが、やっぱりそのときの相手のことを、「許せない」とは思っていないんですね。
思ってないからピンと来なかったということもあるだろうし、その出来事を思い出しても、やはりそんな感情は湧いてきません。
ただ、「あぁ、そんなこともあったなぁ」と思うだけです。
全ては「自分の選択」の結果
何故なら、その出来事に至るまでには、【自分の選択】があり、その結果としてその出来事があった、と思うから。
「自分が悪い」と言ってしまうと、相手に落ち度がないような言い方にも聞こえるし、もちろん相手に問題がなかったわけじゃないので、「自分が悪い」と言い切れるものではありません。
ただ、その出来事に自分の選択が関与している以上、相手だけを責めたり相手に対して「許せない」と感じるのは違うと思うのです。
もちろん、突然誘拐されて連れて行かれたとか、日常生活を送る中で突如、何の意思も選択もなく起こった出来事に対しては「許せない」と感じることもあるかもしれませんが、多くの出来事は、間接的であってもそれまでの自分の選択が関与している、と言えるはずです。
自分が何をするか、自分が何を選ぶか、は自分の責任で、そこに意図しない結果が現れたとしても、それは相手だけを責めるものではない、と思うのです。
常に納得のいく選択をする
ということで、私には今のところ、「許せない」という感情を持つような、選択の自由が全くない出来事は起こっていないし、お互いが自分の選択の結果として関わり合った、その結果として「許せない」と相手に感じるのは違うと思うし、その感情を多くの人が当たり前に持つものだと考えることには、めちゃくちゃ違和感を感じます。
べき・ねばという考え方で選択していたり、相手の気持ちを考えすぎた結果、自分の気持ちと相反する選択をしていたりすると、その結果が意図しないものだったとき、「許せない」と感じるのではないでしょうか。
自分が常に納得のいく選択をしている場合、つまり自分の選択は自分の責任という前提があれば、その結果が意図しないものであっても受け入れられるし、「許せない」とはならないはずです。
自分の気持ちを大切に
相手の気持ちを考えて選択する、というのは、とても優しいことだと思います。
相手を優先して自分の気持ちを抑えたり曲げたりできる人は、本当に凄い。私にはできないことなので、素直に凄いと思います。
ただ、その結果として意図したものとは違う結果になったとき、相手に対して一方的に腹を立てたり、「許せない」と思ってしまうくらいなら、自分の気持ちに素直になった方がいい。
そこでそういう感情を持つというのは、相手に何かしら「期待」をしている、ということ。勝手に期待して、期待が外れたら勝手に怒る。それって結局、相手の気持ちを考えていないことになりますよね。
お互いが自分の気持ちを大切にしながら、納得のできる選択をすれば、「恨みっこなし」になるのではないでしょうか。
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