【自己探求12】母親と私

多くの人にとって、母親の存在は良くも悪くも大きいものです。

お母さんの言葉によるメンタルブロックがあった、という話も女性起業家さんの中ではよく聞く話です。

「【自己探求07】海外と私」の最後にも書いた通り、私の人生にとっても母の存在はめちゃくちゃ大きいものでした。

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私から見た母

ザ・母親

私が小さい頃は専業主婦で、小学校から帰るとおやつを用意して待っていてくれました。おやつは手作りのことも多かったような気がします。

今ほど外食できるお店がなかったので、当時は当たり前だったのかもしれませんが、いつもきちんとご飯を作ってくれて、たまに日曜のお昼に外へ食べに行くようなこともありましたが、あとは、誕生日や親戚の集まりなど特別な機会を除いて、ほとんど自宅でご飯を食べていたように思います。

家事はバッチリこなし、子どもの面倒もしっかり見る、「デキる」母親で、おかげで私は料理も掃除も苦手なまま大人になってしまいました(笑)。お行儀など厳しいところもありましたが、いかにも昭和の母親らしい、母親でした。

ただ、学校に関しては「絶対行かなくてはいけない」とは思っていなかったようで、実際に学校を休んで家族旅行へ行くようなこともありました。

やりたいことをやる

私の実家は呉服関係だったのですが、母も着物がとても好きで、着付けに始まり和裁、組紐などを習っていました。そして、着付けに関しては師範免許を取り、私が中学生くらいの頃には自宅で着付け教室を始めました。

その後、呉服販売の会社で週末だけ販売員をするようになりました。着物の知識が活かせて、結構な時給で働け、宝石などの知識も学べて、とても楽しそうでした。

また、友人がオーストラリアへ移住し、ホームステイ事業を始めたことをきっかけに、その仕事を手伝い、オーストラリアへも何度となく渡航するようになりました。

その後、オーストラリアだけでなく、イギリスやシンガポールなどへも行くようになりましたが、当時はまだインターネット普及前。FAXでやりとりして現地ホテルの予約を取ったりしていたようです。

50歳でダイビングの免許を取ってからは、パラオも何度か訪れていました。「遊びに行きたいからパラオに住んで」なんてことも言われたことがあります(笑)。

現在は年金生活ですが、ヨガやピラティスなどに通っています。パソコンやスマホも使いこなす人なので、コロナ禍に入ってからはオンラインレッスンも活用。私の娘がオンラインイベントで「子ども先生」をしたときにも、もちろんzoomで参加してくれました。そもそも、Windows95が発売されて「面白そう」とパソコンを購入したのも母でした。

また、これは私が大人になってから聞いた話ですが、若い頃には「日焼けしよう!」と友達と奄美大島へ行き、台風が来て帰れなくなったとか、編み物が得意だったそうで、とある有名な先生に弟子入りしようと東京まで行ったはいいが場所が分からずに帰ってきたとか、面白エピソードもいろいろ。

「やりたいことはやる」という私の性格は、間違いなく母から受け継がれています。

いつもポジティブ

基本的にポジティブな人だったので、その言動や考え方は私にも刷り込まれていますが、妹はちょっとタイプが違ったので、私のポジティブは生まれ持った性格もあるのかもしれません。

印象的なエピソードとしては、私が高校生か大学生くらいのとき、実家の呉服屋の業績が悪く、当時住んでいた家を手放さないといけないかもしれない、ということがありました。

住んでいた家は、祖父が会社名義で持っていたものだったようで、地下鉄の駅から徒歩5分もかからない、大通りに面した、昭和初期に建てられたという大きな家でした。

そこを、コンビニにするかもという話が父の口から出たとき、今の生活がゴロッと変わってしまうかもしれない、と涙ぐんだ妹に対し、「コンビニ?お父さん店長?面白そう!」と喜んだのは母と私でした。(結局その話はなくなったのですが…)

そのエピソード以外にも、日々の小さな出来事の中で、母の言葉は基本的にポジティブでした。

言葉は強め

そんな母は自己肯定感も高く、その分言葉も強め。自分がこうだと思うことは、「〜と思うよ」ではなく「〜よ」と断言して言うことも少なくありません。断言されるので、母の言うことはいつも正しい、と思っていました。

それが「そうでもない」と気づいたのは大人になってから。なんのことだったかは忘れてしまいましたが、「〜よ」と言われた母の言葉を一旦信じたものの、後ほどそうではないと気づいて指摘。すると「あれ?そう?私は〜と思ったのだけど」と悪びれる様子もなく、そのとき私は目から鱗が落ちる気分でした。

中学受験のとき、通常は滑り止めを受けたりすると思うのですが、本命とは試験日程の異なる学校は女子校ばかりで、女子校に行きたいとは思えなかった私は、「受けない」という選択をしました。母は「受かるから大丈夫よ」と言っていて、私も「万が一落ちたら公立中へ行く」と言いながら、落ちることはほぼ考えていませんでした。それはきっと、母のポジティブさと、力強い「受かるから大丈夫」という言葉のおかげだったと思います。

私に対して、「〜しなさい」という言い方はあまりしない方だったと思いますが、自分の主観については断言する人で、私はそれに従って選択してきたところもあるな、と今になって思います。

その部分は反面教師なところもあり、私は子どもたちに対して、小さな頃からなるべく選択肢を与えるようにしてきました。母の子どもなので、思わず主観を断言してしまうこともありますが、なるべく「お母さんはこう思うよ」という言い方で伝えるように気をつけています。

いつも応援してくれている

知人の女性起業家さんと話していると、「母親にはいつも(心配する気持ちから)反対された」などという話をよく聞きます。

でも私の場合、今回こうやって振り返って改めて気づいたことですが、母親から反対されたようなことは一つもありませんでした。

日本語教師になりたいから就職活動はしない、と言ったときはもちろん、日本語教師の資格は取ったものの、教壇に立つ勇気がなく、海外での求人に応募するか悩んでいたときも、「社会人に対して教えるわけだから、もう少し社会勉強も必要かもね」とフリーターでいることを許してくれました。

語学留学から帰ってきた私が、一度やってみたかったスキーインストラクターのリゾートバイトで長野県へ行くことも、ホテルのアルバイトが合わなくて辞めるときも、そこから突然、関東で就職すると言い出したときも、全く反対された覚えはありません。

編集プロダクションで働きながら、タイ料理屋でアルバイトを始めたときも、マレー半島の1人旅をしたときも、Webデザインのスクールに通うと決めたときも、編プロを辞めるときも、絶対ダメだとか絶対こうしなさいとか、そんな風に言われることはありませんでした。

結婚前、相手がトラック運転手であることを言ったときは、正直いい顔はしていませんでしたが(笑)、やっぱり反対はされませんでした。子育てに関しても、「時代が変わってるから」と自分の考えを押し付けるようなことはなく、いい距離感で助けてくれています。

もしかしたら、「反対してもムダ」と思われていたのかもしれませんが、そうであったとしても、めちゃくちゃ見守られ支えられてきたんだなぁ…と、こうやって書いてみて改めて思いました。書いていて泣きそうです(笑)。

母の言葉

いつだったか、もう私が結婚して子どもも生まれてからの話だったと思います。専業主婦のときだったのかな?珍しく、仕事についての話をしていました。

前述の通り、母は10年以上専業主婦をしていた後、働き始め、どの仕事でも、よくあるパートと比較するとかなり高額の時給をもらっていました。母の世代は専業主婦率が高く、能力があれば母のようにいい仕事を得ることもできたかもしれないけれど、私の世代は女性でも総合職の時代で、働き続けてキャリアを築いている人が多く、私のように好きなことを転々としていた場合、年齢がいってからの再就職では高収入を望めないかも、ということを言ったところ、母がこう言いました。

「自分の価値を決めるのは自分よ」と。

その時は、時代が違うから、とか、自分にはこれと言えるキャリアがない、とか、そんなことで頭がいっぱいで、しかも「雇われる」という働き方しか頭になかったこともあり、この言葉の意味がいまいち理解できていませんでしたが、今ならめちゃくちゃ響くし、真理を言っているなぁとしみじみ思います。

そして、母がそんなことを言っていたこと自体も忘れていましたが、こうやって自分と向き合い、自分自身を振り返ることで、母のこの言葉を思い出せたのは、本当によかった。これからは、常にこの言葉を忘れずに、自分で自分の価値を高めていこうと思います。

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