【自己探求07】海外と私

自己探求シリーズでたびたび出てきているように、私にとって海外・異文化はとても重要なものだったりします。なので、今日はそこを掘り下げてみたいと思います。

もくじ

外国との出会い

就学前には家族と台湾やグアムへ旅行に行ったこともありますが、私の記憶にある「初めての外国との出会い」は、小学生の頃に母親と乗っていた市バスの中での出来事でした。

当時、京都市内で見かける外国人と言えば、京都大学の留学生がほとんどで、その多くが欧米の白人でした。

そんな中、市バスでたまたま席が一緒になり言葉を交わしたのは、同じく留学生だったのですが、タンザニアから来ている方でした。まだアフリカは独立していない国も多い時代。きっと相当優秀な方だったのだと思います。

家に帰って地球儀でタンザニアの位置を確認し、色とりどりさまざまな形をしたパズルのピースのような認識でしかなかった外国の一つが、少しだけ身近になりました。

英語と私

とは言っても、そこから海外が急に身近になることもなく、当時のほとんどの子どもと同様、中学生になって初めて英語に触れました。私立中学へ進学したので、英語の授業も公立のそれとは違い、先生はアメリカ人で、最初に使ったのは海外製のテキスト。もちろん英語オンリーのテキストですが、特に初めの方は文字がなくて、イラストを見て音声を聞いてリピートする、というやり方。視覚優先の私は非常に戸惑ったのを覚えています。

中学受験後、勉強はほぼ一夜漬けになってしまった私は、英語の単語を覚えるのも嫌で、何度も再テストを受けていました。お陰で、英語という教科は苦手科目に。

小学生の頃から、スイミングやスキーキャンプでYMCAにお世話になっていたのですが、そこで英会話のクラスがあり、中学生になってからそれに通い始めました。同じ中学の子が2人いて、一応先生には英語を使うけど、友達同士は日本語で話しまくるという気楽なクラスで、英語のスキル的にはもったいなかったとしか思えませんが、このクラスのおかげで「英語」は苦手だけど、「英会話」は楽しい、というイメージを持っていて、高校の選択科目でも外国人教師が担当の「英会話」の授業を取っていたほどでした。

初めての海外体験

そして高校生になった頃、母が、オーストラリア・アデレードへ移住した友人のホームステイ事業を手伝い始めました。母自身もオーストラリアへ遊びに行ったりしていて、2年生の時には私もホームステイを勧められました。正直、その時は特別海外に興味があったわけではなく、ホームステイにも興味はなかったのですが、あまり何も考えずに「いいよー」と返事をして、実際に出発が近づいてきて焦っていました。

でも、2週間のホームステイでどんなことをするか一生懸命考え、ちょうど夏休みの渡豪だったので、祇園祭の鉾建ての様子を写真に撮り、釘を使わずに組み立てるんだということを必死で説明したり、ろくに料理もしなかった私でも作れる「わらび餅」を振る舞って、ステイ先の子どもに「worm(芋虫)を食べてるみたい」と言われたり。ホストファーザーが柔道をやっている人で、現地でなぜか日本でもあまり見ない「大相撲ダイジェスト」を一緒に見たり。楽しい思い出がいっぱいできました。

カルチャーショックで世界が広がる

それと同時に、カルチャーショックもたくさん体験。

初日にホストファーザー&マザーが迎えにきてくれたのですが、まずはその車のサイドミラーがガムテープで固定されていたことにビックリ。日本じゃ車検通らないですけど、オーストラリアは車検がないみたいです。高校生で車検のこととか詳しく知りませんでしたが、見慣れない光景に「それで大丈夫なんだ…」と驚きました。

そして、その足で夕飯のおかずを買いに行き、初日の夕食はテイクアウトディナー。嫌だという感情ではなく、それもただただ驚きました。私の母はほとんど専業主婦に近かったこともあり、ステイ初日は手料理でもてなされるイメージがどこかにあったのかもしれません。

料理を手伝った時、野菜を切っていたらすごく褒められました。ホストマザーの切り方は大きさも結構バラバラ、当然火の通りもバラバラ。でも別に誰も何も言わないし、それでもいいのか!という驚き。きちんと揃えて切らないといけない、と思い込んでいた自分の常識が取っ払われた瞬間だったし、なぜ揃えた方がいいのか?ということも腹落ちして、理由が分からないのに「こうあるべき」を守るのは馬鹿馬鹿しい、と思うようになりました。

毎朝シャワーを浴びていましたが、プールへ行くという日にもシャワーの後にドライヤーをしていたら、「今からプール行くのに乾かすの?」と笑われ、そういやそうか、と。これも、シャワーを浴びたら髪を乾かさなければいけない、という「思い込み」があった、と気付かされる経験でした。

そして極め付けはスクールディスコ。ホストマザーは中学校の先生だったのですが、その勤務先でスクールディスコが行われて付いて行きました。学校の体育館で夜、子どもたちが集まり、踊って楽しむイベント。学校でこんなことをやるんだ!とこれも驚きでしたね。

たった2週間のステイでしたが、たくさんの驚きがあって、それとともに私の世界、視野が広がって行きました。

初めての海外旅行

その後、海外への興味が特別高まることもなく、普通の大学生活を送っていましたが、3回生の時、当時の彼と「海外へ行こう」という話になります。予算的にヨーロッパへの旅行は厳しい、となり、候補に上がったのがトルコ。たまたま私が母に借りて読んでいた本が、トルコを旅した女性の旅行記「イスタンブールから船に乗って/渋沢幸子著」で、行ってみたいと思ったからです。

彼と海外へ行くことは親からあっさりOKが出たものの、母からは「ツアーではなく自分たちで手配しなさい」との課題(笑)が出されました。当時はまだインターネット黎明期。旅行の予約は旅行会社を通すのが一般的で、直接現地とやりとりするなら電話かFAX、という時代でした。母自身、オーストラリアなどへ時々行っていましたが、ろくに英語もできないながら、FAXなどで自分で手配していたのです。

電話帳を見て旅行会社を調べ、航空券代を問い合わせ。トルコ航空だと直行便だけど高いということで、マレーシア航空を使っていくことになりました。トルコの宿は現地で探すことにしたのですが、イスタンブールではたまたま気に入った宿に屋上テラスがあり、ブルーモスクとアヤソフィアを眺めながら朝食を食べることができました。

現地では、旅行代理店の人に言われて、当初訪れようと思っていたボドルムから勧められたクシャダスに行き先を変更したり、たまたまカフェで知り合った現地在住日本人の方に勧められて訪れた教会がとても素敵だったり。街で声をかけられてお家に遊びに行ったトルコ人に私たちの大学への留学経験があったり、仲良くなった絨毯屋さんに入り浸っていたら、そこで絨毯を買った(!)という彼のゼミの後輩に出会ったり。それも、女1人旅や女子旅ではなく、彼と一緒だったからこそ経験できたことばかりだと思うのですが、さまざまな出会いによってこのトルコ旅行が出来上がりました。

勧められたクシャダスはお金持ちのリゾート地という雰囲気の街で、あまり楽しむところもなかったり、そこで乗ったミニバスでは降りるところが分からなくてずいぶん遠回りをさせられたり、遺跡の街エフェソスでは「地球の歩き方」に載っていた地図が間違っていたおかげで道に迷ったり、地元の人向けのハマム(トルコ式銭湯)に入ったらほとんど英語が通じなくて困ったり…とトラブルも色々とありましたが、ミニバスの運転手のおじさんやハマムのおばちゃんたちも含め、出会う人々のおかげで楽しく旅ができました。

母がそこまで考えていたとは思えないですが、そんな風に多くの出会いがあったおかげで、私にとって海外旅行とは、現地でいろんな人との出会いがあって、予想できないことが次々起こって成り行き任せで楽しいもの、としてインプットされたのです。

初めての海外一人旅

トルコに魅了され、トルコに住んでみたい、それなら日本語教師がいいのでは、と就職活動そっちのけで日本語教師の勉強をしたことは「【自己探求03】お金と時間を費やしてきたこと」でも書いた通り。

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日本語教師をするなら社会経験も必要だろうし、すぐに就職しなくてもいいよ、と母に言われ、大学卒業後フリーターになった私は、1ヶ月ほどオーストラリアへ行くことにします。大学のサークルで一緒だった友達が、向こうで1年間、小学校で日本語教師をしていたことがきっかけでした。ホームステイ時に一緒だった友達がパースに住んでいたりもしたので、パースで友達に会い、アデレードでホストファミリーに再会し、メルボルン郊外の友達を訪ねるという旅程。時期的にも内容的にも、必然的に一人旅となりました。ま、もともと1人で行動することに慣れていたので、友人を誘って行く、という発想自体が実はなかったのですが。

後から考えてみれば、ワーキングホリデービザを取得して、1年間ゆっくり各地を回れば良かったのですが、まだ当時はワーホリ自体の知名度も低く、知らずに観光ビザでの渡豪となりました。

西海岸のパースから東のアデレードやメルボルンへは飛行機に乗るのが一般的ですが、時間だけはたっぷりあったので、大陸横断鉄道に乗りました。トルコでは長距離バス移動だったので、初めての海外鉄道の旅。節約のため2等コーチで、最初はどこまでも続く地平線に圧倒されましたが、それも時間と共に飽きるんだと身を持って経験しました(笑)。

エアーズロックへ行くために、現地のバスツアーに参加したのですが、他の参加者は多くが欧米人。香港人の女の子がいて、アジア人同士だからかよく喋ってくれましたが、彼女はもちろん英語も堪能。ヨーロッパの人もみんな英語がそれなりに話せるようで、私だけが会話の輪に入れないところがありました。現地ツアーに入ればそこで友達ができる、というイメージを持っていたのですが、全然そんなことはなくて、輪に入れない自分の英語力に心底ガッカリ。ここが、「英語がもっと喋れるようになりたい!」と思った原点です。また、バスの中にカバンを置いて外に出ていた隙に、財布からお金をすられるということも発生。さすがに何日も行動を共にするバスツアーだから大丈夫、と思っていた自分が甘かったことを思い知らされました。

語学留学という体験

帰国後もフリーターをしていた私ですが、「英語がもっとできるようになりたい」という思いを両親に伝え、語学留学させてもらえることに。最初は当然オーストラリアと思っていた私でしたが、母にアメリカへ行くことを勧められます。その時の私にとってアメリカと言えば銃社会のイメージ。あまり気が進みませんでしたが、「行ったことのないところへ行った方がいい」と言われ、まぁそれもそうかな、とアメリカへ行くことに。母の友人で、旦那さんは日本文学を専門とするアメリカ人、どちらも大学の先生というご夫婦がデラウェア州にいらっしゃったため、旦那さんが教鞭を取られているデラウェア大学の附属語学学校へ留学することにしました。

これも旅行と同じく、多くの日本人は留学斡旋機関を通して留学する人が多いようなのですが、私はそういう経緯だったため(またそういう会社があることも知らなかったため)、直接語学学校のホームページから申し込みをして、英語のメールや紙の書類を必死で解読して手続きを進めました。どうやら予防接種が必要らしい、と打ってもらえる病院を探しては接種して証明書をもらい、帰国後に仕事があるという証明がないと入国させてもらえないらしい、と当時のバイト先の上司にお願いして、帰ってきたら再雇用するといった内容の手紙も書いてもらい、そういったもの全てに自分で英訳を付け、と準備をしました。今思い出すと結構大変だったと思うのですが、この時は留学へ向かって一直線に気持ちが向かっていたからか、今回振り返るまでこの準備のことはすっかり忘れていました。ただ、ちゃんと入国させてもらえるのか、ということだけは入国審査を通るまで不安に感じていました。

母の友人宅にホームステイすることもできたのですが、ホームステイの経験はあったし、大学の寮に滞在することができたので、最初の4ヶ月は寮生活を送りました。寮は語学留学生ばかりの4人部屋で、韓国人、ブラジル人、ベネズエラ人がルームメイト。ブラジル人は割と真面目な子でしたが、ベネズエラ人はかなりのワガママお嬢様で、体調が悪いからと担当の掃除をしないくせに男友達を部屋に招く、という日本人的にはありえない言動の数々によく衝突していました。でも、寮にいる日本人と韓国人は割と多く、よくみんなでパーティをしたのは楽しい思い出です。

実は、最初の4ヶ月は勉強より恋愛に忙しかったのですが(笑)、「勉強に専念したい」と振られてからは私も勉強に打ち込み、クラスのレベルが上級クラスに上がったこともあって、本当に毎日遅くまで友だちと図書館で勉強してから帰る毎日でした。中学受験しかしていなかった私にとっては、この時が人生で一番勉強した時期だと思います。当時、日本でもベストセラーになっていた「The 7 Habits of Highly Effective People(7つの習慣)」の「Habit 1 Be Proactive」のところが題材として取り上げられたり、2つの本を読んで、それをレポートにまとめるという宿題が出されたり、本当に頭の中の英語の部分が常にフル稼働という感じでした。大変ではありましたが、勉強に打ち込むこと自体が楽しかったし、自分の英語レベルが上がっていくことを体感できるのも嬉しかったです。また、Social Studyのクラスでは、現地幼稚園でのボランティアを体験。4歳くらいの子がみんなの前で自分の好きなものなどプレゼンする様子を見て、日本との違いに驚きました。

そんな後半の4ヶ月は、母の友人教授に紹介してもらった、コスタリカ出身の女性教授の家にホームステイ。彼女は離婚してシングルだったので、ホストファミリーと言うよりシェアメイトのようなメンターのような存在で、とても程よい距離感で生活させてもらいました。それまで割と自由な人生を送っていたとはいえ、日本の昭和の価値観をまだまだ持っていた私にとって、移民の女性が教授として独り持ち家で暮らしていることにもなんとも言えない驚きがありましたし、サンクスギビングには彼女の元夫ファミリーが集まるところへ連れて行ってもらい、普通に仲良くしている姿にも衝撃を受けました。本当にとても素敵な女性で、彼女との生活があったからこそ、勉強にも打ち込めた4ヶ月間でした。

大学附属の学校だったので、大学進学を目指すクラスメイトもいましたが、私はそこまでは考えられず、当初半年の予定を2ヶ月延長してもらったということもあり、8ヶ月で帰国しました。当初の目的が「外国人と友達になれるだけの英語力」だったので、大学へ進学してやりたいことがあった訳でもなく、目的は十分達成したと感じての帰国でした。今考えても、あれほど充実した時間は他になかったと思います。

英語を使った仕事

留学の動機は「世界中の人と友だちになりたい」でしたが、最後に受けたTOEICで895点を取得したこともあり、母の勧めもあって、帰国後は「英語を使って仕事をした方がいいのかなぁ」と考えるようになりました。昔から母はホテルマンを勧めるようなところがあり、きっと少し憧れがあったのでしょう。親にお金を出してもらったから、という気持ちもどこかにあったと思います。

大阪の某一流ホテルで英語を使う仕事の募集があり、アルバイトでしたが採用していただきました。朝食を出すレストランで、座席を案内する係です。配膳は別の配膳担当の方がいるので、私はひたすら座席を案内するのみ。難しい会話もなかったのですが、相手は日本へ出張に来るような一流ビジネスマンばかり。失礼がないようにしないといけない、と思っていて、いつも緊張していました。特別トラブルを起こすようなこともなかったのですが、ビジネス英語を全く学んでこなかったし、同じポジションの人がいなかったので正解がわからず、自信がなかったのだと思います。その緊張感からか、始発で出勤するような生活をしていたからか、体調を崩して数ヶ月で辞めてしまいました。

その後、京都の外国人観光客向けのお土産物を扱う免税店で、ピークシーズン限定のアルバイト募集があり、採用していただきました。9月から仕事が始まり、11日には「9.11(アメリカ同時多発テロ)」が発生。観光客がグッと減り、人員的にも余裕があり、ゆったりとした雰囲気で働くことができました。また、相手が観光客ということで、前職のような「きちんとしなければ」という勝手な緊張感もなかったし、接客の中でたくさんの会話を交わすことで相手にも喜んでもらっているという実感があり、仕事を楽しむことができました。ホテルの仕事の後、この仕事をできたことは、今思うと結構大きいことだったかもしれません。

3ヶ月の契約だったアルバイトが終わり、そろそろ正社員として就職しないと、ということで、アルバイト経験しかなくても英語力で採用してもらえたのが、子ども英会話スクールのマネージャー職でした。外国人講師とのコミュニケーションには英語が必要。先生たちは1年2年の契約で日本へ来ていたので、仕事以外の時間でもよく一緒に遊んだりご飯を食べたりしました。
ここでの仕事は私自身思うところがたくさんあり、長くなるので別記事にまとめました。

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マネージャー職は結局半年ほどで辞めてしまったのですが、その後登録した派遣会社から紹介されたのが、大手国際航空貨物会社のコールセンター職でした。電話は苦手、と思っていたのですが、ここでも「一度やってみたら」という母の助言でやってみることに。当時使われていた車内の貨物トラッキングシステムが全世界共通の英語のシステムだったので、英語ができない人は大変だそうで、また、英語ライン担当は専門の社員さんがいるのですが、そこがいっぱいになった時は一般ラインに溢れてくるので、それなりの英語力を求められていました。当時の私的にはシステムの使用もたまの英語対応も問題なく、海外経験がある人ばかりの外資系らしい雰囲気がとても働きやすかったです。

その後は編集プロダクションを経てWeb・ECの仕事をするようになり、英語はほとんど使わなくなりましたが、この4年間は常に「英語で会話する」「仕事で英語を使う」ということが身近にある日々でした。

外国人の恋人

話は少し遡りますが、英会話スクールで出会った外国人講師の中に、お付き合いをして、同棲もしていた人がいました。彼はオーストラリア人、と言ってもアジア系の人なので、見た目は日本人のようでしたが。

文化的にはアジア人として共通するところもあり、大きくショックを受けるようなことはなかったのですが、彼の両親は中国系とベトナム系の人、いわゆるベトナム難民の方だったので、その辺りの文化を学んだり、移民というものを身近に感じ、その歴史を知るいい機会になりました。また、愛情表現はオーストラリア仕込み(笑)だったので、一緒に住んでいたにも関わらず、誕生日には職場にバラの花束が届いて驚く、といったこともありました。

私が彼と出会ったのは、彼が来日して数ヶ月の時で、まだほとんど日本語もできなかったのですが、もともと英語の他にベトナム語と広東語も話せるトリリンガルだったからか、日本語の習得もめちゃくちゃ早く、驚いたことを覚えています。彼と一緒にいた頃は、常にスクールの先生やスタッフたちと遊んでいたので、私自身も日常的に英語を話す環境でした。

約2年半お付き合いし、2年ほどは一緒に暮らし、結婚も考えていました。彼のお父さんが来日した際には、私の母も一緒に4人で食事をしたこともあったし、結婚したら…という話もよく2人で話していました。
ところが、彼が別の女性を好きになってしまい、破局。本当にショックで、しばらくはずっと泣いて暮らしていましたが、時間の経過とともに立ち直ることも経験しました。また、彼と出会う前からずっと結婚願望があったのですが、それはもしかしたら相手に依存していただけなのかもしれない、と気づくきっかけになりました。

それでも「外国人と仲良くなりたい」と言えなかった訳

これだけ、海外に行ったり、英語でコミュニケーションを取ることが好きだった私ですが、ずっと、「外国人と仲良くなりたい」とはあまり言えませんでした。そんな風に思ったり言ったりすることに抵抗があったんですね。

なぜかと言うと、いつの時代だか(今でもあるのかな?)、「見た目が可愛いからハーフの子が欲しい、だから外国人と付き合いたい」とか「日本人よりジェントルマンだから外国人男性がいい」とかって言う女性がいました。身近な誰、とかというわけではなく、社会の中にそういう人たちがいた、という話です。私はそういう言動に違和感を持っていましたし、「外国人と交流したい」と言うことで、そういう女性と同じくくりで見られるんじゃないか、と恐れていたのです。

あと、今思えば、「どうして外国人と仲良くなりたいの?」と聞かれた時の答えが用意できていなかった、ということもあります。海外経験が自分の価値観を変え、私という人間を作ったということを、自分自身で認識できていなかったし、人を納得させる答えとして持っていなかったので、ただ自分の好き嫌いで「海外が好き」と言っても、ミーハーな印象しか与えない、と思い込んでいたのです。

英語を使う仕事をしていると、近しい属性の人ばかりが周りにいて楽なのですが、だからこそ、自分という人間を構成する一部として、海外経験が大きなウェイトを占めていることに気づきにくかったという部分もあるように思います。

まとめ

今回、こうやって振り返ってみて、海外経験なしで今の自分はない、ということを強く感じました。私の価値観を作り、世界を広げてきたのは、ここに挙げた数々の経験による部分が大きいです。また、それにも関わらず、もっと長く海外にいた経験のある人や、海外で働いたことのある人と比べて、「自分が語れることじゃない」と思っていた節があることも、今回こうやって書いてみて気づきました。

また、ほとんどの場面で母の助言があったし、それが大きなポイントだったんだな、と改めて気づきました。海外経験だけでなく、私が自分のやりたいことを大切にしてこれたのは、母の存在が大きかったと思います。

女性起業家のビジネスを語るとき、また母親の子育てについて語るときにはよく、母親との関係性、母親の言葉によるメンタルブロックとの関係が挙げられます。私の場合、母親は(父親も)自分のことを受け入れ応援してくれていたのに、私自身が他人との比較で自分自身にダメ出ししていた、という部分があったりします。

その部分についても、また深掘りしていきたいと思います。

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